2015年3月31日火曜日

愚公山を移す



といった「ことわざ」が、研究所や明日館の壁に掲げられています。「愚公山を移す」。中国の故事の中に出てくるエピソードです。

昔、愚公という90歳になろうとする老人が、自分の家の前にあるふたつの大きな山がじゃまになるので、よそへ移そうと言い出した。周りの人はその愚かな行いをあざ笑ったが、「自分が死んでも子供や孫がいる。またその子供や孫に引き継いでいけば、山が増えることはないからいつかはできる」と、実際にやり始めた。天帝は、その心意気に感じて、ふたつの山を他の場所に移したという。  

意味としては、不可能に思えるようなことでも努力を続けていれば、きっといつかは成し遂げることができる、ということらしいです。

これは今年の自由学園グループのモットーだということです。社長が選んだのでしょうか。


1932年創業の自由学園生活工芸研究所は、今年で82年。当初は、女性の起業した、新しいグループでした。創業者は海外に留学して新しい技術やデザインを学び、日本の名だたる芸術家の指導の下で、日本を代表するアーチスト集団として、パリの万国博覧会に出展し、大きな賞をもらったりもしています。

編み物、織物、染色など、個人向けに技術指導をしたり、本を出版したり、手芸業界のパイオニアでもありました。

玩具は、自由学園の幼児研究や生活研究の中から生まれたオリジナリティの高いものばかり。遊びと教育を結びつけた知育玩具のパイオニアなのです。

こうした資産を、代々のデザイナーや製作者が、品質を損なうことなく、守ってきました。


この80年間、研究所をめぐる環境は大きく変化しています。戦争があり、戦後の物不足があり、経済復興があり、バブル景気があり、バブル崩壊があり、平成不況やアベノミクス。

業界も、親が手作りの玩具を与えていた時代から、進駐軍のアメリカ人のためにバービーを作った時代、リカチャン人形の時代、仮面ライダー変身ベルトの時代、インベーダーゲーム、たまごっち、任天堂シリーズ、最近では妖怪ウオッチまで、時代による流行り廃りの激しい時代になってきました。

テキスタイルにしても、創業当初には目あたらしいかった「プラネテ」は、その後、中国製の安価な生地がどんどん入ってきたり、北欧スタイルブームなどで、国内産の生地など他には見当たらなくなってしまいました。

こうした経済や業界の変動を尻目に、生活工芸研究所では、ひたすら国内、どころか社内のアトリエにおいて、良質な玩具やテキスタイルを淡々と作り続けてきたのです。

そこには玩具やテキスタイルの老舗としてのプライドもあったでしょう。また、もともとその発祥からして、ビジネス的ではない社風や、学園関係者というターゲットを抱え込んで共に成長してきたという経緯もあります。前にも書きましたが、よい玩具が欲しい人は、ここのものを買っていれば安心、という、競合社の少ない時代でもありました。

よいものは残る。この度、あのトレンディーな玉川タカシマヤのバイヤーさんのお目にかなったように、時代が変わってもよいものは評価されているのです。

80年という年月は、愚公が山を移す仕事を子や孫に引き継いできたのに匹敵する年月です。淡々と良品を作り続けてきた、という意味では、このことわざを実証しているといえるかもしれません。

その一方で、こうしたチャンスをいかに捉えてブランド化してゆくか、他社と差別化してゆくか、それが今後の自由学園生活工芸研究所の課題なんだと思います。




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